綾川のメモ帳

歌詞の考察とかをやります

アルストロメリア(アルストロメリア)の歌詞考察【シャニマス】

はじめに

 曲名とグループ名が同じでややこしいので、以下ではグループ名を指すときだけ「アルスト」と略すことにします。アルストは大崎甘奈・甜花姉妹と桑山千雪の三人ユニットで、「花ざかり、私達の幸福論」をユニットコンセプトにしています。アルストロメリアとは花の名前であり、和名では「夢百合草」や「百合水仙」と呼ばれるそうです。様々な色の花が咲くようですが、アルストのメンバーカラーは甘奈・甜花・千雪の順にそれぞれ赤・ピンク・白となっていて、これはアルストロメリアの花の色に対応しているものと考えられます。

 アルストロメリア花言葉は「持続」「エキゾチック」「未来へのあこがれ」などがあるようですが、花の色ごとにも花言葉があります。赤は「幸い」、ピンクは「気配り」「献身」、白は「凛々しさ」とのことです。ここら辺のキーワードは楽曲全体に散りばめられていて、かなり花言葉を意識して楽曲が作られていることが窺えます。

 では前置きはこのくらいにして、さっそく歌詞を考察していきましょう。

 

基本情報

タイトル:アルストロメリア

作詞:鈴木静那

作曲・編曲:森本貴大

 

1番Aメロ-1

気絶しそう しどろもどろ

花ざかりタレイア

まともな神経(あたま)が繋がらない アダージョみたい

 まず、タレイアというのはギリシャ神話の女神で、アフロディーテの侍女である三美神(カリス)のうちの一柱です。豊かさや開花をつかさどる女神であるため、歌詞にも「花ざかりタレイア」と出てくるわけです。もちろんこの「花ざかりタレイア」は比喩であり、「私」のことを指しているのでしょう。「花ざかり」というのは女性の最も美しい年ごろを意味しますが、前後の歌詞を踏まえて考えると「恋の花が満開な状態」や「頭がお花畑みたいな(恋にのぼせている)状態」といった意味も掛けているものと思われます。また言うまでもなく、「花ざかり、私たちの幸福論」というユニットのコンセプトからの引用という意味合いもあるでしょう。

 ちなみにですが、アルスト楽曲では宗教用語や哲学用語がばんばん出てきます。可愛い楽曲の雰囲気とは裏腹に、結構重たいワードがさらっと出てくるのが特徴です(そういうとこだぞアルスト)。

 アダージョというのは音楽用語で、遅い速度のことを表します。恋にのぼせて頭がまともに働かない状態なので、「頭の回転速度が遅くなってしまっている」ことを「アダージョみたい」と表現している訳です。

 

1番Aメロ-2

凛々しくいよう 強くなろう

天と地がディストーション

夢をみることも忘れてしまうのかな

 白いアルストロメリア花言葉「凛々しい」がさっそく使われています。前節のように「気絶しそう しどろもどろ」という状態ですが、心を強く持とうとしている「私」の心情を読み取れます。このパートを甜花が歌ってるのもいいんですよね。

 「ディストーション(distortion)」というのは英語で「ひずみ」「ゆがみ」のことを指します。「天と地」はそのまま「空と大地」という意味もありますが、「天地」というと「全世界」のことを指す場合もあります。つまり、「天と地がディストーション」というのは「全世界が歪んで見えてしまうような恋の衝撃」を表しているのでしょう。またついでですが、音響機器で意図的に音をひずませるエフェクターの中にディストーションと呼ばれるものがあります。実はこれがCメロの歌詞とリンクしています。

 最後の「夢をみることも忘れてしまうのかな」はなかなか意外なフレーズです。普通だったら恋に夢中になっている心理状態を「夢見心地」のような言葉で表現しそうなものですが、ここではあえて逆の言い回しにしています。「夢見心地」すら通り越して、もはや夢をみる余裕さえもない状態である、ということでしょうか。なお、ここのフレーズにはアルストロメリアの別名が「夢百合草」であることも掛かっているのでしょう。

 

1番Bメロ

ふくらむ蕾が傷だらけでも

優しくそっと手をとってくれますか

 「ふくらむ蕾が傷だらけでも」という、ちょっとダークっぽさを感じる歌詞がいかにもアルスト楽曲という印象を受けます。「ふくらむ蕾」というのは、「私」自身のことを指しているようにも、「芽生えかけの恋心」を指しているようにも聞こえます。「私」自身も傷だらけだし、芽生えようとしている恋心も、もしかしたら成就させようとする前から既にうまくいかないことが多いのかもしれない……というようなことを暗示させます。

 メロディの話も絡んできてしまうのですが、この曲はBメロで4拍子から3拍子に変化するのが特徴的です。この3という数字はユニットの人数に掛けているのかもしれません。また3拍子はワルツのリズムであり、社交ダンスなどでもよく用いられることから、後半の歌詞「優しくそっと手をとってくれますか」のイメージにもぴったりです。恐らく曲先で歌詞を後から付けたのだと思いますが、3拍子であることを非常に効果的に利用しています。

 

1番サビ-1

チュ チュ チュ 幸福論 誕生

アイデンティティー見つけた

アルストロメリアの花

咲いた 咲いた Silent Love

 ここでサビが来るわけですが、やっぱり「幸福論」「アイデンティティー」など曲調の柔らかさの割に重ためな単語が出てきます。アルストのユニットコンセプトが「花ざかり、私達の幸福論」ですから、取りあえず1番に「花ざかり」と「幸福論」というキーワードを詰め込んできているのでしょう。全体的に宗教的・哲学的な用語が散りばめられているので、この「幸福論」はもしかしたら哲学からの引用でもあるかもしれません。というのも、哲学分野では「三大幸福論」と呼ばれるヒルティ・アラン・ラッセルの3つの『幸福論』があるからです。なお、「幸福論 誕生」は恐らく1番サビの後半の内容を指しているだろうと解釈できるので、解説は一旦飛ばします。

 「アイデンティティー」は「自分らしさ」みたいなニュアンスの言葉です。「アイデンティティー見つけた」が何を指すのかは曲を最後まで聞けばその意味がはっきりと分かります。まだこの段階では、「キミ」を好きになったことで自分にアイデンティティーが生まれたのだろう、くらいに思っておけばOKです。

 このパートの最後の「Silent Love」はかなり解釈に悩みます。直訳すると静かな恋ですが、ここでは「秘めた恋」と訳するのが適切でしょうか。この部分を「知られたくない恋」と解釈するか、「知られてはいけない恋」と解釈するかでこの曲の印象がだいぶ変わります。何度も言ってますが、この曲はふわ甘な曲調に結構ビターな要素が隠されています。今回は取っつきやすいように前者寄りで解釈しますが、後者の解釈も全然ありだと思います。例えばもう恋人がいる人を好きになってしまったとかね。そういうことを平気で歌詞に隠してそうな雰囲気があるからアルストは怖いのです。

 

1番サビ-2

過去も未来も諸事情も

キミ色にぜんぶ染まりたい

一途なわたし フィロソフィ

咲いた 咲いた Silent Love

 まず、サビ前半の「幸福論 誕生」というのはこの部分を指しているんじゃないかなあと思われます。つまり、「キミ」に全てを捧げることが自分のアイデンティティーであり、それが私の幸福論である、ということです。曲が進むにつれて、この推測はだんだん確度を増していきます。

 一見すると一途な恋心を歌った可愛らしい歌詞に見えますが、やや気になるのは「諸事情も」というところです。「過去も未来も」キミにぜんぶ染まりたい、というのは分かるんですよ。だけど「諸事情も」という部分はやっぱり何かしら後ろめたさを感じさせるフレーズです。この「諸事情」が、もしかしたら「私に(も)恋人がいる」ということなのか!? とも最初考えたのですが、流石にちょっとそこまでエグい歌詞とは受け取りたくない(でもアルストならやりかねないのが怖い)……ので、ここでは別の解釈をしておきます。1番Bメロの歌詞に「ふくらむ蕾が傷だらけでも」というのが出てきたので、「諸事情」というのはこの「(私が)傷だらけ」という部分と呼応してるのかなあという気もします。単純に失恋で傷ついているのかもしれないし、相手を傷つけてしまうような恋愛をしてきたのかもしれないし、具体的には色々考えられますが、とにかくそういう「諸事情」も、「キミ色にぜんぶ染まりたい」、と解釈すればまだ比較的ポジティブに受け取れます。

 ちなみに「フィロソフィ」というのは「哲学」という意味もありますが、他にも「人生観」という意味があります。「あの人は仕事に関して独特の哲学を持っている」みたいな感じで使うやつです。つまり、ここで言っている「フィロソフィ」というのは「幸福論」のことを指していると思われます。「キミ色にぜんぶ染まりたい」=「アイデンティティー」=「幸福論」=「フィロソフィー」なんですよ。全部繋がってるんです。ちゃんと。

 1番だけでもこの曲の歌詞がいかにやばいかが分かってきたと思うんですが、全体として歌詞が有機的にリンクしてるんですよね、この曲。

 

2番Aメロ-1

ニヒリズムもペシミズムも

退屈がテンプレ

まっ赤なりんごは落ちてこない 木の上のまま

 ま~た重たいワードぶつけてきてる! と思わず叫びたくなります。

 「ニヒリズム」は簡単に言うと「人生に意味なんてないさ」みたいな達観した考え方のことです。また「ペシミズム」は「悲観主義」で、なんでもかんでもネガティブに捉えてしまうような考え方です。これらの考え方を恋愛観に適用した時に共通しているのは、「結局なにも行動を起こさないで傍観する」ということです。このパートは甜花が歌唱していることから、彼女自身の人生観の投影とも受け取れます。

 しかし、ここではそんな考え方を「退屈がテンプレ」であり「まっ赤なりんごは落ちてこない 木の上のまま」であるとわざわざ比喩まで使って退けようとしています。

 りんごが落ちるという表現から連想されるのはニュートン旧約聖書だと思いますが、宗教・哲学用語が多いことから、アダムとイブの楽園追放の話からの引用している可能性が高そうです。ひとまずそちらの方向性で解釈をしてみますが、意味はなかなか難解です。というのも、りんごが落ちてこなければアダムとイブはずっと楽園にいられた可能性がある訳で、むしろそれは普通いい意味に捉えられてしまうからです。しかしちょっと捻くれた解釈をすれば、ずっと楽園にいて平凡な日常を送るよりも、知恵の実を食べて追放される方が刺激的で楽しいじゃん、という意味に捉えることもできます。これが「私」の心の奥底にある小さな願望なのかもしれません。実はアルストロメリア花言葉には「小悪魔的な思い」というのもあるそうなので、結構あり得る解釈です。このままだらだらと今の関係が続くより、悪いことしてでも刺激的な関係になってしまいたい……という意味だとしたら、なかなかぞわっとする歌詞です。さらに言うと、前述の通りこのパートを歌っているのは甜花で、甜花の最初の衣装は肩と腰に小悪魔の羽を模した飾りが付いています。とすると、この小悪魔的な解釈も信憑性がありそうです(アルストロメリアカップリング曲である「ハピリリ」にも割と小悪魔的な歌詞が出てきますね)。甘奈の衣装では逆に天使の羽のような飾りになっているので、小悪魔 対 天使という構図は明らかに意図的に取り入れられたコンセプトだと思います。

 一方、ニュートンの重力発見の逸話から引用しているとすると、歌詞の意味は「なにもしないで待っていたって、恋は何も進展しないよ」という割とシンプルな意味に受け取れます。こちらの意味で解釈しても前後の意味はすんなり繋がります。ちなみに、ニュートンがりんごが落ちるのを見て重力を発見したというのは実は根拠のない逸話なのですが、まあ今回それは置いておきましょう。どちらの意味に解釈するかは受け手次第、というところでしょうか。

 個人的には前者の解釈の方が好きですが、この小悪魔性が「私」の本質と考えてしまうとこの曲の解釈を誤ってしまう危険性があると思っています。あくまで小悪魔的な考え方は「私」の奥底に眠る暗い感情のほんの一部、と捉えた方が良いと思います。小悪魔性は「そうであったらよかったのにな」という願望や憧れに近いものなのだと考えられます。

 

2番Aメロ-2

もしも いつか やがて きっと

初めからエンドロール

照れかくしなんてあまのじゃくすぎるかな

 冒頭の「もしも いつか やがて きっと」というのは、恋に積極的になれない自分が言い訳をするときの最初の言葉を表しています。つまり、「"いつかきっと"告白しよう(今はしないけど)」というような消極的な態度を表現しています。そう考えると、2番Aメロ-1で出てきた「ニヒリズム」「ペシミズム」というのは、やはり「私」が自分自身のことを自虐的に評価した言葉である可能性が高そうです。しかし、そんな消極的な態度では「初めからエンドロール」、つまり始まる前から終わってしまうのです。また、「照れかくしなんてあまのじゃくすぎるかな」という部分を見るに、「私」は好きな人の前で照れてしまうのをつい隠して、わざと気がないような振りをしてしまうのでしょう。だからこそ「私」の恋は「Silent Love」なのです。

 

2番Bメロ

ねじれた茎(バルブ)が不完全でも

かまわずずっとそばにいてくれますか

 まず、茎と書いてバルブと読ませているのが独特です。普通、茎を英語で言うときはstemという単語を使いますが、「鱗茎(球根)」を表す英単語にbulbという言葉があります。調べて見るとアルストロメリアには球根があるそうなので、このバルブは球根のことを指しているのでしょう。ちなみに「バルブを閉める」という方のバルブは英語でvalveと書き、全く違う英単語です。「ねじれた茎(バルブ)が不完全でも」という部分は、あまのじゃくで捻くれている自分の性格をねじれた球根に例えているのでしょう。それでも「かまわずずっとそばにいてくれますか」と相手に問いかけようとしているのです。

 

2番サビ

ギュ ギュ ギュ 悲劇的 最高

ジャッジメントがくだらない

アルストロメリアの葉は

まわる まわる Cipher

 ついに来てしまった……解釈激ムズフレーズ……。間違いなくこの箇所の解釈が一番難しいです。

 まず、「悲劇的 最高」というのは相反するフレーズが並んでいてとても奇妙ですが、恐らくあまりにうまくいかない自分の恋愛を皮肉って、「まあ、悲劇としては最高の展開だよね」と自虐的に言っているのではないかと思われます。そうすると、「ギュ ギュ ギュ」というのはハグの擬音ではなく、自分自身の手を強く握りしめたり、胸が締め付けられたりする時の擬音なのではないでしょうか。

 そして「ジャッジメントがくだらない」と続きます。この「ジャッジメント」は最初「付き合うかどうかの判決」のことを指すのかと思いました。しかし、このあとの歌詞ではまだ告白前であるような歌詞が続くため、その解釈はやや無理がありそうです。とすると、やはりここも宗教的な引用であると考えられます。そう、「宗教」で「ジャッジメント」と言えば、真っ先に思い浮かぶのは「最後の審判」です。最後の審判は、世界が終わりを迎えた際、人間が生前の行いを審判され、天国に行くか地獄に行くかが決まるという考え方のことです。「最後の審判がくだらない」ということは、「自分が天国に行くか地獄に行くかなんてどうでもいい」という意味に取れます。平たく言えば、「もうどうにでもなれ!」という精神状態です。

 最後は「アルストロメリアの葉は まわる まわる Cipher」という歌詞。ここも色んな解釈ができそうです。まず、アルストロメリアの葉は不思議な形状をしていて、葉の根元付近で180度ねじれるという特徴があります。さらに、全体的に葉が螺旋構造のように付いているので、そこからも「まわる まわる」という表現がしっくり来ます。また、Cipherというのは英語で「暗号」「ゼロ」「取るにならないもの」など色々な意味がある言葉で、これをどう解釈するかが難しいところです。「悲劇的 最高」がうまくいかない自分の恋を皮肉っているのだとすれば、一番考えられるのは「ゼロ」だと思います。つまり、どうにかしようとあれこれ頑張ってはいるけど、結局は空回りしてしまって「無=ゼロ」になってしまう、ということです。ゼロ=0は、その形からも「まわる まわる」の後に来る言葉にふさわしいと思います。

 

Cメロ

サチュレーションあげてよ

バイオリズム果てまで

もっとドキドキしよう

 「サチュレーション(Saturation)」というのは英語で「飽和状態」を意味する言葉ですが、「バイオリズム(biorythm)」「ドキドキしよう」というように生体に関連する言葉が続いていることから、医学用語として使われていることが推測されます。「サチュレーション」は医学用語で酸素と結合しているヘモグロビンの割合のことを指し、酸素飽和度と呼ばれたりもします。余談ですが、コロナに感染している人の重症度を迅速に測る「パルスオキシメーター」は、まさにこの酸素飽和度を測定しています。酸素飽和度が低いと人は息苦しさを感じます。ということは、「サチュレーションあげてよ」というのは「(キミのことを思っていると)息もできないくらい苦しいよ」という心情を表現しているのです。

 バイオリズムというのは人の身体、感情、知性等がある一定の周期で変動しているという仮説のことですが、現代では特に科学的証拠がないとされています。「バイオリズム果てまで」ということは、その周期の果てまで、つまり「人生の終わりまで」を意味しているのでしょう。こういう「永遠」みたいなニュアンスの言葉にオタクは弱いです。ソースは僕です。

 なお、実は音楽用語にも「サチュレーション」という言葉があり、Aメロで出てきた「ディストーション」と同じく「歪み」を表します。そのため、恐らく音楽用語からの引用・連想という意味合いも隠されているんじゃないかなーと思ったりしています。

 

ラスサビ

チュ チュ チュ 幸福論 誕生

アイデンティティー見つけた

アルストロメリアの花

咲いた 咲いた Silent Love

 

ギュ ギュ ギュ 悲劇的 最高

ジャッジメントがくだらない

アルストロメリアの葉は

まわる まわる Cipher

 

Yes No 好きでも嫌いでも

キミにならぜんぶ捧げたい

重なるしぐさ シンパシー

咲いた 咲いた Silent Love

愛が 咲いた Silent Love

 被っているところは省略して、最後のパートだけ考察します。このパートだけ歌詞が変わっており、曲の「結論」に相当するということもあり、非常に重要な箇所です。

 「Yes No 好きでも嫌いでも」の部分は、恐らく花占いからの連想でしょう。一枚一枚花びらをちぎって「好き、嫌い、好き……」とやるアレです。ここに至って「私」には、もはや「キミ」が自分のことを好きかどうかさえ関係なくなっています。「キミにならぜんぶ捧げたい」、結局このフレーズがアルストロメリアの「私」の結論=「幸福論」なのです。「私」が見つけた幸せというのは、好きな人と結ばれることそのものではなく、「キミ」にどれだけ自分を捧げられるか、ということだったのです。恐らくここで、ただ「キミ」に夢中なだけだった「私」が、初めて自分と相手のことを少し客観的に見ることができるようになったのだと思います。「重なるしぐさ シンパシー」という部分は、ただ盲目的に「キミ」に恋している状態から脱したことで、ようやく相手のことを少しは理解して「共感」することができた、ということを表現しているような気がします。

 結局、この曲では最後まで「私」の恋が成就したのかどうかは判断できません。本人にとっても、それはもはやどうでもいいことになっています。しかし、最後の最後で「愛が 咲いた」という言葉がでてきます。英語のLoveはカジュアルめな「好き」から「恋愛感情」までさまざまな意味が含まれますが、「私」にとってのLoveは、「献身的な愛」であったということなのでしょう。「幸福論」の観点から言っても、最初は「キミ色にぜんぶ染まりたい」というようにやや受動的なものだったのに対し、最後は「キミにならぜんぶ捧げたい」と能動的な考え方に変化しています。それに連れて、「Silent Love」の意味も変わっているような印象を受けます。初めはあまのじゃくな性格から「知られたくない恋」であったけれど、最後は文字通り「静かな愛」の形を見つけられた……そんな風に解釈できるのではないでしょうか。

 

最後に

 ここまで長い怪文書を読んでいただきありがとうございました。

 明るい曲調や歌い方に騙されがちですが、これまで見てきたようにアルストロメリアは結構な激重感情を歌っています。メリバに近い雰囲気を感じます。アルスト恐ろしいです。これを可愛らしい衣装にニコニコ笑顔で歌わせるシャニマスとかいうコンテンツヤバ過ぎません?(誉めてる)

 アルストの曲はどれも好きなので、また他の曲の歌詞も考察してみたいですね。取りあえずハピリリはマストかもしれません。

 それではまた。